INTERVIEW

INTERVIEW
2023.12.30

『ストライカー”らしく”生きる』~海外で30歳までストライカーとして生き抜いた男の、キャリアの歩み方、生き方~vol.2

斎藤 陽介|EASY PRODUCTION株式会社

PROFILE

斎藤 陽介|EASY PRODUCTION株式会社 Yousuke_Saito

1988年、東京都世田谷区で生まれ。横浜Fマリノスユースから、2007年にトップチームに昇格し、プロデビュー。その後当時JFLのツエーゲン金沢を経て、海外挑戦。シンガポール、ラトビア、ロシア、ベラルーシ、オーストラリア、エストニアにおいてストライカーとして活躍。引退後はEASY PRODUCTION株式会社にて、映像配信事業に携わる。

斎藤 陽介|EASY PRODUCTION株式会社

PROFILE

斎藤 陽介|EASY PRODUCTION株式会社 Yousuke_Saito

1988年、東京都世田谷区で生まれ。横浜Fマリノスユースから、2007年にトップチームに昇格し、プロデビュー。その後当時JFLのツエーゲン金沢を経て、海外挑戦。シンガポール、ラトビア、ロシア、ベラルーシ、オーストラリア、エストニアにおいてストライカーとして活躍。引退後はEASY PRODUCTION株式会社にて、映像配信事業に携わる。

第二話

『セカンドキャリアに、なぜ今の仕事を選んだ??』

ちょっとここで、今の職に就く経緯なんかを教えて欲しいのですけど、大丈夫です?

もちろんもちろん。

マリノスをクビになって、23歳の年から海外に行くようになったんですけど、年末とかオフで日本に帰ってきたときは、いろんな方とサッカーをしたり、食事をしたりっていう風に交流をしていたんですね。

その中で、今の会社の社長が気にかけてくれていて、帰ってくる時はサッカーを一緒にしてって感じだったんです。

それで時がたって、その方が、新しく会社を起こすって時に、その時僕が30歳で、そろそろ引退を考えるタイミングだったんですけど、そのタイミングで話を聞かせていただいたんですが、”あ、これやりがいがありそうだな!” って感じて。もうビビ!って来た感じでした。

当時在籍していたエストニアのクラブと、契約自体は残ってたんですけど、もうジョインしようと思って。

自分の中では、それまでも引退の危機は実はあったんですけど、30歳までは海外で”ストライカー”として闘い抜くって決意があったんです。ただ、そのタイミングではやりきったなっていう感覚もあったんですね。そういったタイミングも相まってって感じでしたね。

であれば、それまでは次のキャリアを考えていたっていうよりは、とにかく30歳までやり切る!っていうことを考えていた???

そうですね。30歳まで海外でフォワードとして、ストライカーとして、生き抜くことが目標だったので。

強い思いで海外で生き抜いた陽介さん。競技をやりぬいたからこそ見える世界があるだろう。

本当、すごいよね!23で海外に出て、しかもそこまで環境が整った国でのプレーではなかったような気がして。。。。そんな中で。。。

さすがピアノマン(笑)

一同:笑

※ピアノマン

=陽介さん自身、小学校1年生~高校2年生まではサッカーと並行してピアノもコンクールに出るなど活動されていたことが由来となっている。2009年の横浜Fマリノスの新体制発表会でおよそ1000名の前で演奏したことでも話題となった。なお、本人の同意を得る前にクラブ側が決定していたようで、本人に断る権利は与えられなかったという。。

じゃあ、そこまでは次のキャリアについて考えることはなかったけど、今の会社の話を聞いたときに、面白そうだなって思ったみたいな感じだったんですかね??

あ、でもそ30歳になるころには、いろいろな方からお話を聞くようにはしてましたね、参考にさせていただくっていう意味でも。

あ、そうなんですね。であると、他にも選択肢はあった??

あ~、覚えてないな~。これだ!って思ったのが今の仕事だったので。

でも自分の経験を生かせる仕事って何だろうって考えたときに、ずっとサッカーをやってきて、ずっとスポーツに携わってきている中で、その経験は生かせるなって思ったんですよね。

なるほど。それで言うと、聞いてみたいのが、これまでの大きな選択の連続だったと思うんですよね。プロになるときもそうだし、海外に挑戦しようって決断した時もそうだし。そういった”決断”するときの、自分の中での『軸』ってなんなのかなって。

うーん。。

感覚ですかね?うん、感覚かな。

なんで点が取れるの?っていう時も、言葉で説明しきれなかったし、でもその点を取る感覚っていうのは、確かにあったんですよね。

中学から高校へ進むときも、プロになるときも、海外に挑戦するときも、決断する時は自分の中の感覚で決めることが多かったですね。周囲に相談はしましたけど。自分の中でここしかない!これしかない!っていうときにはそれに従って選択してきましたね。

それで言うと、今の会社を選択するときも同じような感じで??ここしかない!みたいに。

そうですね。自分の中では。

あと振り返ると、海外挑戦するときはずっと周囲にも海外へ行くっていうことは伝えていたんですけど、松さん、松田直樹さん(元サッカー日本代表。横浜Fマリノス時代に共にプレー)に、『おまえ、下手くそだけど、点は取るから海外向いてるよ』って言われたんですよね、尊敬する存在である松さんからのそれは一つの後押しにはなりましたね。

なるほど。そういった方の言葉も、決断する要因にもなったっていうことですかね。

今の仕事に就くうえでは、そういった言葉とかは?社長さんからとか。

うん~、でも軽い感じではありましたよ(笑)次、どうするの?みたいな話から。

社長自体が、それまで大きな案件を手がけていて、そんな方が新たな会社を作るっていう中で、『陽ちゃん、興味ある?』みたいに言ってもらえて。それこそ本当に立ち上げ期だから3名くらいだったんですけど。

それで関わる中で、『見とけよ、会社どんどん大きくしていくから』って仰っていて、そしたら本当にどんどん大きくなっていって。(笑)

本当すごいなと、尊敬する方ですね。

すごい(笑)

本当に、尊敬しますね。

なので、そういった自分の感覚と、尊敬する方の言葉とかがマッチした時っていうのは更に決断しやすくなるイメージですかね。自分の感覚が軸となりつつ。

な~~るほどね。そういうことか。

ちょっとここで、サッカー面のことも聞いてみたいんですけど、これまでのサッカー選手としてのキャリアの中で、印象に残っていることとかってありますか??

シンガポール行って、ラトビア行って、ロシア行って、ベラルーシ行って、オーストラリア行って、エストニア行って、そのほかにもテストでも行ったりしましたけど、僕的には、どこの国に行っても応援してくれたっていうのは心に残ってますかね。

特に印象に残ってるとすれば、ベラルーシでプレーしていた時ですね。今社会情勢的に苦しい状況になってしまってはいますけど、当時僕がプレーしていた時はアジア人が僕1人とかで、街に出れば写真や握手とか求められて、お城とかに観光いったらスポーツ紙に載るみたいな感じでした(笑)

熱狂的でしたし、街の人たちがこぞって応援してくれる中でプレーできたのは、本当に幸せでしたね。

いいなー。そういうのって、引退すると、ないよね!(笑)

ですね(笑)僕の場合だったら、点を取るために、試合に勝つために練習して残りの時間も含め24時間過ごして、点とって試合に勝って、そのあとなんてアドレナリン出まくって寝れないですよね。(笑)あの感覚はね、一生味わえないとは思いますよね。

アドレナリン!!!!!!!!!!!!

たしかに(笑)

今の仕事の中で印象に残っていることはあります??

今の仕事で言うと、もちろん当初からすべてが初めての経験でしたし、いろんなこともやるけど、変化のスピードもめちゃくちゃ早いので、あっという間の5年っていう感じではありますね。

その中でぱっと出てくるものだと、配信5分前まで映像が繋がらない!どうしよう!とかはありましたね。最後はしっかりと繋がったんですけど(笑)

あとはバスケとか、高校生の大会に携わって、えらく感動しちゃったりとかもありますね(笑)あれ、感動するんですよ!めちゃくちゃ。(笑)

そういった感動のようなものを映像を通じて届けられるっていうのも、やりがいの一つですよね。

なるほど。

映像つながらないは、痺れますね(笑)

インタビューも終盤に差し掛かり、少し変化球的な質問をぶつけてみた鈴木。その流れから、ストライカーとしての心理的性質、そして陽介さん自身のキャリアに関するスタンスを感じることができた。

今35歳。これまでの人生を一言で表すとそういった言葉になります??

え!なにそれ、難しいですね!初めて聞かれましたよ(笑)

それって、一文字とかで表すみたいなやつですか??

いや、一文字でなくても大丈夫です(笑)

サッカー選手としてでもいいし、ビジネスマン含めてトータルでもいいし。

そうですね。。でもそれで言うと、自分の名前にもある、“陽” は自分を表す言葉な感じがしますね。考えてみると。

その理由は??

どんな時でもポジティブなマインドでいようとはずっと考えていましたし、太陽のように輝き続けなければならないっていう思いもありましたし、特に選手時代は。

僕の場合は点をとって勝たないといけないし、相手との駆け引きを常にする中で、自分がネガティブになったら、そのマインドは結果に出ちゃいますし、だから本当に、自分自身がポジティブにいることは意識してましたよね。練習をしっかりして、ルーティンをこなすっていう風にして。

でも常にポジティブでいるって、難しくない????

いやー、それは本当に(笑)

でも陽介って、自分が悪い時でも常にパスを要求し続けていたじゃない?

それってすごいことだなと。

そうですね。だからあれですよ、点が取れるまでずっとモヤモヤしてましたよ(笑)しかも海外だと、助っ人ですからね。

本当に自分との闘いすぎましたよね(笑)だから、海外のTOPリーグの第一線でやってる選手って本当にすごいなと思います。

たしかに。もう異次元で俺想像もつかない(笑)

本当ですよね(笑)ただ、そういったヒリヒリする環境に身を置けたのは非常に良かったかなと思ってます。

アフリカの選手とか、南米もですけど、やっぱり家族や街を背負って出てきている選手は目つきが違いました。技術は日本人のほうがあるのかもしれないですけど、そのギラツキ感というかね。

シュート打つ直前の、そこにかける強烈な想いなんかも目の当たりにしましたし。日本では絶対こんな選手育たないよなってことも感じました。

サッカーって、チームスポーツですけど、ヨーロッパは個人スポーツのような感覚でしたね。たとえチームの成績が良くなくても、自分が良ければステップアップもできる環境なので。そうすれば待遇もよくなっていくしっていう。

でも、そんな環境に7年もいたっていうのもやっぱりすごい(笑)

気持ちめちゃ強いと思う。

(笑)あとはその国々の文化や気候、食事にアジャストさせていくっていうことも大事でしたね。僕はそれぞれに合わせるようにしていたんですけど。

なんか、俺の勝手なイメージなんだけど、高校からプロになるうえで、横浜Fマリノスっていうクラブで、すごくエリートなわけじゃないですか。

プライドもあっただろうし、いい環境で教育も受けていたと思うんだけど、そういう人間が、そういった環境にいくって、すごい環境に慣れるの大変だったんじゃないかって思うんだけど、そのあたりは??

そうですね!確かに。

そういえば、最初の移籍の時に口にめちゃくちゃヘルペスできてましたね!(笑)ストレスで!初めての移籍でめちゃくちゃヘルペス(笑)

横浜Fマリノス時代の陽介さん。ユースからトップチーム昇格できる人など一握り中の一握り。まさにサッカーエリート。

(笑)でも、今はもうどこでも生きていけるっていう状態になってる感じ??

そうですね。どこでも生きていけるかなと思います(笑)いろんな国に行って、鍛えられました。(笑)

それこそ今、カンボジアで新たな取り組みもしているんですが、何もないところから、文化も違う中で、その環境下で何ができるんだろう、どう進めていくのがいいんだろうって考えながら、そして適応しながら進めたりしてるんですが、そこには過去の経験が生きてると思いますね!

なるほどなるほど。選手時代の経験がしっかり生きているわけだ。流れでの質問になるんだけど、

選手が次のキャリアをしっかり波に乗せていくという意味において、現役時代から自分が思っていることとかを発信していくことって大切だと思う?

んー、そうですね。

僕もいろんな人を近くで見てきていますけど、発信するかどうかは置いておいて、引退した後の自分自身のベースは作っておいたほうが良いなとは思いますね。

でも、やり切った人って、そのベースって身についていると思うんですよね。物事への取り組み方とか含めて。

具体的に、ベースってどんなことを意味している??

みんな多分、企業の社長さんとか、関わってくれる人はいると思うんですよね。そういった人たちとの関係も大切とは思いますけど、自分が何をしたいのか、っていうことを考えておくことも大切かなと。

僕の場合だと、やんわりとですけど、サッカーだけではなく、海外にもいたので、グローバルにスポーツに関われたらいいなっていう思いがあったんですよね。そういったベースがあったからこそ、いただいたお話に反応できたとも思うんです。

なので、100%サッカーに取り組むのは前提としつつ、自分で将来何がしたいかっていうことは考えたり、何かに取り組む事でそういったものを見つける作業はしておいたほうがいいと思いますね。

ありがとうございます。

最後になります!これからの目標というか、やっていきたいことを教えてください!

そうですね。去年から海外事業としてカンボジアで事業展開を進め始めた中で、まずは他の東南アジア含めてにはなるとは思いますけど、海外にも広げていきたいなと。それと、映像の権利周りに関しても勉強しながら、どんどん仕事として広げていけたらいいかなと思っています。アジアのTOPをまずは目指していきます!!

GO編集後期:

あっという間のインタビュー。2人の関係性も相まって、終始和やかなインタビューとなった。実は編集長GOも、陽介さん、鈴木崇文擁する当時の神奈川県少年選抜と、2005年の岡山国体で試合をしたのだが、当時から陽介さんの印象は、”THE ストライカー” 

そんな生粋のストライカーが現役を退いてどのようなキャリアを歩んでいるのか、個人的にも非常に興味があった。

冒頭にも書いたが、サッカーにおけるストライカ―という存在は、一見、一般社会と相容れないような性質を持っているという見方もできる。それだけ特異なポジションであるということだが、前回の西田剛さんのインタビューの流れ含め、それは単なる印象論にすぎないのかな、とも感じるようになった。

その”らしさ”を持って、社会にアジャストしながら、むしろその特性を生かして力を発揮していく。そんな生き様にシンプルにカッコよさを感じたからだ。

これからどんどん活躍の幅を広げ、そして深みも生み出していくであろう”ストライカー陽介”さん 数年後、JLINEメディアも大いなる成長を遂げたうえで、またインタビューをさせてもらいたい。