INTERVIEW
【第一話】リーグ戦出場ゼロだった12年間のプロキャリア
PROFILE
鈴木 雄太|モンテディオ山形強化部 yuta_suzuki
神奈川県横浜市出身。向上高校卒業後、2006年にモンテディオ山形へ加入。7年間在籍し、2013年から湘南ベルマーレへ。その後、ザスパクサツ群馬を経て2017年に引退し、山形の強化部スタッフに就任した。公式戦出場は群馬時代の天皇杯1試合のみであるものの、12年にわたりプロ生活を継続するという稀有なキャリアを持つ。
PROFILE
鈴木 雄太|モンテディオ山形強化部 yuta_suzuki
神奈川県横浜市出身。向上高校卒業後、2006年にモンテディオ山形へ加入。7年間在籍し、2013年から湘南ベルマーレへ。その後、ザスパクサツ群馬を経て2017年に引退し、山形の強化部スタッフに就任した。公式戦出場は群馬時代の天皇杯1試合のみであるものの、12年にわたりプロ生活を継続するという稀有なキャリアを持つ。
強化部の仕事について
ー現在、強化部長補佐をされているということで、仕事内容を教えてください
スカウト活動を週末に行い、あとは練習に入ったり、補強や雇用といったトップチームの強化に携わっています。
ー強化部に入った後、どのように仕事は変わっていきましたか?
部長、GM、僕の三人でスタートし、最初は部長から言われた仕事をこなすというか、ついていくだけでしたね。外国人住居準備や在留関係登録関連の書類を提出するとか、雑務全般をしていて、時間が経つにつれて徐々に任せられる仕事が増えていきました。
ー今はどのような体制ですか?
今の強化部は全部で5人います。部長の下に補佐が3人いて、さらにGMがいます。スカウティング、データの管理、アカデミーとの連携、スカウト、在留登録手続きと、大枠ではそのような仕事をしています。
ー分業が進んで仕事もしやすくなりましたか?
そうですね。1年目の7月〜8月には体調を崩して、熱が39度ぐらい出たこともありましたから。だからといって、人を増やしてもらった訳ではないですよ。笑
ー現役時代とは大きく環境が変化しますよね
午前中に体を動かして午後は自由に過ごせることが当たり前だと思っていたところから、毎日デスクにいて、夜遅くまで仕事をするのに慣れるまではちょっと時間が掛かりました。
がむしゃらに続けた12年間
―12年のプロキャリアについても伺いたいのですか、高卒でプロに入ったときには、相当に自信を持っていたと思います
今考えれば苦労や厳しさなど右も左も分からない状態で、子供の頃から描いたシナリオ通りに進んでいくんだろうという風に思っていました。それで、やっぱり簡単にはいかない世界だなと痛感して。ポジションはGKだったんですけど、試合に出場する機会が全くなく12年間を過ごしてきました。言葉にすると12年は長いという感じがするけれど、1年1年、1日1日、がむしゃらにやり続けたので、気がついたら12年経ったなというのが率直な感想です。でも、その時の経験があったから、地元でもなんでもないのに縁あって7年間過ごした思い入れのある山形へ戻らさせてもらった。そこで、自分しかしていない経験を選手たちのために還元できることがすごく幸せです。特別に意識しなくても(自分の経験を)還元することが、クラブのためにもなったりするので、がむしゃらに12年間やり続けてよかったかなと思います。
ー公式戦で1試合、リーグ戦は出場ゼロで12年間にわたりプロを続けるというのは、かなり特異なキャリアです
強化部の立場になってみると、よく残してくれたよなというのが率直な想いです。(高校を卒業し)山形に2006年から12年までいたのですが、(移籍する)12年のときも契約はまだ残っていたんです。地元に戻れるということで、湘南へ行き、2014年に初めての契約満了になりました。その後も、自分のプレーというよりも湘南ベルマーレのGKというブランドのおかげでザスパへ運良く入れた。そして、ザスパの2年目に天皇杯へやっと出られました。11年経って試合に出られたんですけど、本当に人に恵まれた12年間だったなという気がしています。
ーその1試合の重みをどう感じていますか?
周りがどう思っているか分からないですけど、毎週末に向けて常に準備をしてきたつもりです。いじられキャラなので試合に出場するかもしれない1週間は周りからワーワー言われましたけど、正直、普段通りでした。紅白戦にスタメン側で出られているんだな、セットプレーの時は、スタメンの人はこんなに伸び伸びやれているんだなというのをたった1日感じただけでした。試合の日もそうですけど、普段と何も変わらない状態ではありましたね。
山形だからキャリアを続けられた
―ちなみに高卒で山形へ入った時は、何年契約で入られたのですか?
2年でした。そこからずっと1年で刻んで、毎年1年契約です。
―高卒でも2年経つとレンタル移籍やカテゴリーの変更、契約満了もある中で、更新を続けられた要因はどこにあると感じますか?
今は移籍をするハードルがそこまで高くない時代で、試合に出て自分の価値を高めていく。レンタルで若手の選手が出場機会を得て、また戻ってきたり(上位のクラブへ)羽ばたいていくというのがスタンダードになってきています。でも、僕らの時代はどちらかというと同じチームにいて、そこでどれだけやれるか。1番最初にプロになれたところに居続けたいっていう思いがありました。あとは単純にサッカーが好きだったんです。(ライバルが)「試合に出られて良いな」という気持ちや後輩がスタメンやサブに入って「このやろう」とイライラする時もありましたよ。それでも、サッカー、ボールを蹴るのは楽しいとグラウンドに立ち続けました。それを見てくれて、チームに欠かせない1人だと評価してくれたのかなと。だから本当に運が良かった。そういう点を重んじてくれるクラブに行けたのはすごく大きかったと思うんです。(試合に)出てる人しか取らないクラブだったら、僕は重宝されていないので、そこはありがたかったですし、感謝しかないです。
―試合に出られない中で、将来への不安もあったと思うのですが?
不安しかなかったです。
―それを抱えていても、楽しめていたと?
選手だったらわかると思うんですけど、シーズン始めのキャンプの時期はすごく楽しいんですよ。まだメンバーが固まっていないから。そこから開幕して、メンバーが固定され始めて他のポジションの選手が入れ替わったりして自分にも可能性があるんじゃないかと思ったり、段々と練習生なんかで同じポジションの選手が来て不安になっていく。そして、8月から10月くらいになると、試合に出られていない人は来年のことを考え出すんですよ。僕は毎年、胃がキリキリしていて、それを12年間繰り返していました。
―そんな状態でも、ピッチでのアプローチは変わらなかったのですか?
ピッチで表現するのは、2時間頑張ればいいじゃないですか。その2時間になにをしたら良いか考えて、午後や夜過ごすという逆算はできていた方だと思います。だからグラウンドでは全力でいたつもりです。
―そうした山形での日々、7年間で得たものは?
通常のJリーガーだと試合に出て、タイトルを取ってという輝かしいことを喋ると思うんです。けれど、僕の場合は自分より早くベテランや、若手の選手が契約満了になり、引退する姿を目の前で見てきました。だから生き方は他のJリーガーよりも多く学んだと感じます。努力したから報われる世界ではありませんが、本当に適当にやってる人や全然練習に集中していない人は、プロキャリアが短かったり、壁を乗り越えることができない。逆境を乗り越えた人、乗り越えられなかった人を7年間で見られたのは、すごく良い経験でした。
限界を感じたのは最後の1年だけだった
―そういうことは、移籍した後も若手に伝えたりしていたのですか?
ザスパの時は若手選手に対して少し話した気がするんですけど、人に伝えると自分の立場が危うくなると考えていたので。僕はビビりで、サッカー選手として自信がないので、自分がより得をするために、発言・行動していた気はするんですね。でも、今もまだ活躍して現役で残っている選手達は、裏での頑張りがすごいなと常々思います。
―ベテランになったら、経験を伝えるべきだとも言われますが、生き残るためには自分本位である必要もあると思います。
ラスト1年ぐらいは、ある程度限界が見え、そろそろ(選手生活が)危ないなと思っていた時で、なかなか勝てないチームの状況も踏まえ、ちょっと自分のフェーズを変えたと思います。客観的に見られるようになり、伝え方を工夫したりしていました。
―どんなところで限界を感じるのですか?
この年齢で試合に全然出てない。でも若い選手はこれからだという人がやっぱりいて、どんどん試合に出るようになる。段々、「自分の価値は何なんだろう?」と思うようなりましたね。ラスト1年くらいは。
―ただ、逆に言うとそれは最後の1年だけだった。
多分、ある程度僕の中でも目標があったと思うんですよ。1試合は絶対に出たいとか、初出場を絶対にするという。ギラつくポイントがあったんですけど、1試合出ると、満足したわけじゃないですけど、また出られなくなった時に、ちょっと弱くなったなと思う時があったんですよね。
―若い時代に1試合に出た後、ゼロが続くというのだったら、気持ちも違っていたのでは?
絶対変わっていましたね。そう思うから、今の選手たちには、やっぱり(試合に)出て評価されるし、出ることが一番チャンスになると伝えています。自分もそこに関しては後悔しているから、もしやり直せるのだったら途中でどこかへ移籍して、挑戦したいと多分言っていました。1年は思っている以上に短いから、「後悔しないようにやれよ」と昔の自分に伝えたいです。