INTERVIEW

INTERVIEW
2023.09.08

【第二話】失敗したときに役立った、サッカーで得た考え方

蒲原 達也 | 株式会社イーグル建創 取締役営業部長【元町田ゼルビア】

PROFILE

蒲原 達也 | 株式会社イーグル建創 取締役営業部長【元町田ゼルビア】 TATSUYA_KAMOHARA

蒲原達也(かもはら・たつや)1983年7月8日、佐賀県出身 ドリブルが得意なMFとして、国見高校、国士舘大学を経て2006年サガン鳥栖入団し、2007年7月からは当時JFLのFC琉球へ。その後2008年には当時関東リーグ1部に所属していた町田ゼルビアに加入し、JFL昇格に貢献する。その後2010年まで町田でプレーした後、引退。その後は当時町田ゼルビアのメインスポンサーだった「株式会社イーグル建創」で営業として働く。入社13年目の現在の役職は「取締役営業部長」。

蒲原 達也 | 株式会社イーグル建創 取締役営業部長【元町田ゼルビア】

PROFILE

蒲原 達也 | 株式会社イーグル建創 取締役営業部長【元町田ゼルビア】 TATSUYA_KAMOHARA

蒲原達也(かもはら・たつや)1983年7月8日、佐賀県出身 ドリブルが得意なMFとして、国見高校、国士舘大学を経て2006年サガン鳥栖入団し、2007年7月からは当時JFLのFC琉球へ。その後2008年には当時関東リーグ1部に所属していた町田ゼルビアに加入し、JFL昇格に貢献する。その後2010年まで町田でプレーした後、引退。その後は当時町田ゼルビアのメインスポンサーだった「株式会社イーグル建創」で営業として働く。入社13年目の現在の役職は「取締役営業部長」。

——2007年までは地元のチームに所属していたので、引退してそのまま地元で暮らすという方法もあったと思います

今だから正直に言いますが、当時の岸野靖之監督とあまりうまくいっていなかったのです。それに身体も動いていたので引退するとかそのままクラブに残るという選択を考えませんでした。

岸野監督からは練習後、毎日のようにいろいろ話をされていたのを覚えています。ところがその岸野監督がおっしゃっていたことは今に生きているのですよ。

僕は監督から「自分を大切にしなさい」と言われたのを勘違いしていました。「自分の今まで培った技術をちゃんと生かせるように準備やトレーニングをしなさい」という意味だったと思うのですが、それをはき違えて今のままの自分でいいのだと調子に乗っていました。

——岸野監督とはその後どうなりましたか

引退するときに連絡して「どうだった? 自分のサッカー人生は」と聞かれたので「いろんな方に助けていただきましたが、自分の力足らずで引退することになりました」と言いました。

そうしたら「お前は次の仕事に行っても大丈夫。大体の選手は人やケガのせいにして辞めるけれど、自分のせいと言っているのだったらしっかりしているから大丈夫だ」と言っていただきました。今でも心に残っている言葉です。

——厳しいアドバイスが生きたのですね

会社に入っても厳しい上司に恵まれました。外回りしていたとき、ときどき上司から電話がかかってきます。状況を説明すると、他の上司たちは「じゃあ一緒に回ろう」と言ってくれることもあるのですが、自分の上司だった方は「それじゃダメだから、もう1回行ってきて」と突き放すタイプだったんです。

そんなとき、自分は「えー……わかりました」と従っていました。そうやってどんどん1人でやらせていただいたから早く成長できたのだと思います。

——プロサッカー選手だった経験はどんなときに生きましたか

まずスポーツ系の人間は、やっぱり少しのことでは挫けないというのがあります。それがよかったですね。

それから役職が上がっていって支店長になったあと、失敗したときに感じました。下川会長に「どうしたらいいでしょうか」と相談したことがあります。そのとき会長から「お前がサッカーの監督だったらどうするか考えたほうがいい」と、それだけ言われたのですよ。

そこでサッカーチームの監督は、足が速かったり背が高かったり、いろんな特長のある選手をどう使っていたか考えました。それが組織運営に生きましたね。「こういう部下にはこういうアドバイスしたほうがいい」「こういう部下にはこんな上司の組み合わせにしたほうがい」と考えるようになって、それからはうまく行くようになりました。